原点回帰~初心忘るべからず SIAT編その1
マツカン(マツモト管楽器工房)開業は僕にとって何度目かのリスタートです。再スタートに際して、胸によぎることは、「初心」という言葉です。初めてのことばかりに、まさに初心。今はその渦中にあるので、まだうまく文章にはまとめられそうにありません。そこで、なぜ、自分が管楽器修理を生業にするようになったかを振り返ることによって、初心についてあれやこれや考えてみたいと思います。まずは約10年ほど前にさかのぼります。
そもそもは長きにわたって、サラリーマンをしていたのですが、四十代ともなると定年退職も見えてきます。退職後は年金もらって(ちゃんともらえるかどうか当てにもなりませんが…)悠悠自適に趣味に生きるというのは自分の柄ではないし、できることなら、一生続けられる仕事に就きたいと、いい歳をして、青臭いことを思ったりしました。そして、正直、自分の人生自体、大げさに言えば行き詰っていました。
しかし、ありがたいことに、そのことを相談できる人生の先輩が自分にはいました。親身に話を聴いて下さった後にその人は、「楽器の修理をしてみないか」という予想だにしなかった提案を口にしたのです。そして「もちろん、本来なら楽器を修理するという職人は若いうちからやらなければ、モノにならない仕事だ。でも、今はなかなか職人のなり手が少なくて、人材不足なんだ。自分自身も楽器を修理に出して、納得のいく仕上がりで返ってこないことを一度ならず、何度も経験している。君の手先が器用なのは知っている。そのぐらいの器用さがあれば、潜り込めるんじゃないかと思うんだよ、私は」と続けて言いました。“もぐりこむ”とは今思えば、言い得て妙な表現です。今もって正式な職人の道を通っていないという思いが自分にはあります。但し、お客様の立場に立って耳を傾けることに関しては誰にも負けないという自負はあります。ハンデは長所の母です。
もう一つその当時の僕には心配事がありました。「私は音楽を聴くのは好きですが、楽器の演奏経験がありません。そんな私に管楽器の修理など務まるのでしょうか」とその心配をその人にぶつけてみました。「たしかにそれは大きなハンデだね。でも、『これもない、あれもない、と、ないことばかり挙げていたら、何もはじまらないよ。』足りない部分はこれから補うしかないじゃないか。音楽面で私がサポートできるところは協力するから、一歩、踏み出したらどうかな。」とありがたい言葉をいただきました。
それでも不安は払拭しません。それから、自分でもいろいろ考えました。今の自分にできることは何だろうと。久しぶりに深く考えました。考えに考えました。それまで会社で経験を積んだクリエイティビティのキャリアは独立して通用するものではないというは自分でもわかっていました。そして、残念ながら、他に稼いでいける特技は自分にはないという結論に至りました。もし、相談した方に「管楽器の修理」という選択肢を提案してもらっていなかったら、途方に暮れるところでした。今いるところで行き詰り、よそに行く当てもない。にっちもさっちも行かない状態です。しかし、人生経験も見識も豊かな先輩が冷静な目で簡単なことではないけれど、不可能ではないと言ってくれた選択肢は挑戦する価値があるのではないか。僕はそう決断しました。
大いなる不安を抱えながらも進むべき道がはっきりしたことは当時の僕の心を晴れやかにしてくれました。あとは不安材料をひとつひとつつぶしていく作業です。経験がないのだから、まずは初歩的なことを教えてくれるところで学ぶ。そして、卒業後は実践を積むために、楽器店で見習いとして修業する。しかるべき修業を積んだら、独立自営する。といったおおまかな行程表を組んだうえで、具体的な方策を見つけていく作業です。まずは学べる場所探しです。もう十年前はインターネットも成熟しており、たいていのことはネット検索で知ることができました。大手楽器メーカーY管楽器テクニカルアカデミーやG管楽器学院は年齢制限があり、門は閉ざされています。ほかに2年制の専門学校がいくつかありましたが、歳のいった自分には2年間は長すぎます。選択肢から外しました。そして残ったのが、伊勢原にあるSIAT(湘南管楽器リペアスクール)でした。何十年ぶりかに履歴書を書き、健康診断書を取得し、入学試験まで受けました。さすがに40代での入試は緊張しましたが、おかげさまで、何とかパスし、2009年4月6日、月曜日に授業初日を迎えました。この日も緊張したことを覚えています。今手帳をひも解くとこの日は晴れだったようです。それではその様子は次回つづることにいたします。